院長:荒木 進

ご挨拶

当院の理念は、患者様の歯をできるだけ抜かずに、8020を達成し質の高い充実した人生を口腔を通して実現してもらうことです。

そのためにも 『歯についてもう一度お話をしませんか?』

経歴

1947年6月22日生
愛知学院大学歯学部卒業(1973)
愛知学院大学総義歯学講座入局(1973)
名古屋市緑区青山にて開業(1978)
 
アメリカ歯周病学会会員
日本歯周病学会会員
日本臨床歯周病学会会員(元理事)(認定医)
日本化学療法学会会員
日本顎咬合学会会員(指導医)
国際歯周内科学研究会会員
横田式総義歯研究会元会長
スタディーグループ若葉会会員
名古屋市立緑小学校 学校歯科医師
デンタル学院技工士部非常勤講師

趣味

日本野鳥の会会員
日本トルコ協会会員
スポーツクラブアクトス会員
東建多度カントリークラブ会員
松下釣船同好会会員
サッカー同好会盛球会会員
公営温泉の旅
絵画の鑑賞
家族のアルバム作成

院長プロフィール

乳児期の時代

昭和22年、ベビーブームの真最中に、私は愛知県知多郡大高町(現 名古屋市緑区大高町)に生まれました。

良く泣く赤ん坊は、母乳が足りなかったためで、野羊の乳、牛の乳で育ちました。
一升瓶を持って近隣の農家に牛乳を買いに行くのが日課で次男とそれを飲んで育ちました。

実家が大高城の隣ということで、幼年期は城の堀跡の竹藪、本丸城跡や近くの寺院などでガキ大将に従って野山を駆け回りました。

セミ、トンボ、カブトムシ、クワガタムシ、ザリガニ、フナ、ドジョウなどを採って泥だらけになって服を汚しても母親は叱りもせず洗濯が大変だったと思います。

幼稚園時代

すぐ近くの春光院というお寺が幼稚園を開園するということで、早速入園して1年数ヶ月通いました。

祖父が春光院の奉仕活動をしており、よく遊びに行っていたということで、朝早くから本堂に入り、走り回り園長の住職にもよく叱られました。

教室はお寺の庫裏で冬はとっても寒く、夏は我慢できないくらいに暑かったのを覚えています。

昼休みには境内にでて遊び、あるときは、弁天島の橋の上で喧嘩をして、橋から落とされてずぶ濡れになって泣いて家に帰り「どうして負けたの、もう一度喧嘩をして勝ってきなさい」と激励されたこともありました

やがて楽しい幼稚園生活も30人ほどの卒業生と共にすぐ隣の小学校へと進学をすることになりました。

小学校時代

地元の大高小学校に入学をしました。学校では比較的おとなしく、勉学に励んでいたように覚えています。

これは初恋の人が出来たからかも知れません。もちろんプラトニックラブ(片思い)でしたが・・・

家ではサボテン収集に熱中したり、祖父に大きな鳩小屋を軒下に作ってもらい10羽ほど飼って一生懸命に世話をしたりしました。

ある時、悪大将に「鳩をよこせ」と言われ、ガンとして拒否をしました。放課後にブランコで遊んでいると、大将がブランコまで来て殴られました。どんなに殴られても、絶対に鳩は渡しませんでした。

また、級長や生徒会の書記などをしました。就任の挨拶の時など全校生徒の前の演台で言葉が中々出ずに大笑いをされたりもしました。

中学時代

ところてん式に、小学校から地元の中学校に入学をしました。
中学校では鈴置という先生に見込まれて、何故か温室部に入り、校門横の温室の水やりを誰よりも早く登校して行い、帰る時も残って水をやり続けました。

当時同じ部員であった鈴木君と一生懸命にやっていたものでした。できの良いポインセチアの鉢などを校長室へ持って行くと校長先生は大変に喜んで飾ってくれたものです。

知多市のシンピジウムの花も見に行きました。時には買ってきて温室で育てましたが、育てるのが大変に難しかった覚えがあります

また、この頃は親に駄々をこねて高価なステレオオーディオ装置を買ってもらいクラッシックを聴くのを帰宅後の楽しみにしていました。

高校時代

高校は1年生で卓球部に入り、1年生は学校の周りをただただ走っているだけでした。

そのため、どうとう疲労による肝炎を起こしてしまい退部ということになりました。

ただ1つの楽しみは、昼休みにフォークダンスを体育館でやり、あこがれの女の子と手を握ることでした。

でも、次は私の番だと思ってドキドキしていると、その前でタイムアップということも多々ありました。

浪人時代

団塊の世代の受験戦争を困りに困って、静岡大学電気工学(テレビを作ったところ)と新潟大学歯学部(新設された学部)を受験しましたが、両方ともうまくいかず浪人ということになりました。

人生を色々と悩み、そして迷いに迷い、近くの春光院の住職(幼稚園長)に相談に行きました。

「今は歯科医が不足していて、世の中は困っている人も多いし、長寿になれば歯はますます重要になるぞ」と説教をされました。

私自身も受験勉強中は毎夜、母親がお茶と茶菓子を出してくれ、それを食べていたので、歯が悪く何度も何度も歯に痛み、苦しみ、そして受けた治療がとても痛かったのを覚えております。


自分が歯科医になったら、さぞ痛くないだろう、また歯も悪くならないだろうと思いました(実は間違っています)。

そこで東京へ行き、あこがれの東京医科歯科大学の近くで浪人生活を送ることになりました。

授業が終わると目的の大学の周りをぐるぐると回って帰宅をしました。

でも、そこはとても難しく12月には諦め地元の大学を受験しました。

愛知学院大学歯科学部

初めての講義は受け口の人の手術でほとんど傷がつかないように下の顎の骨を切断し、正常な形の下あごにして、きちんと噛め、見違えるようにかわいい女性になった手術でした。

これは私の思いを遙かに超えた素晴らしいマジックのようなものでした。

文武両道を歩もうと決心し、昔からのあこがれのサッカー部に入りました。

ところが、そこは歯学部のサッカー部ではなく法商文学部のサッカー部でとても厳しく、毎日毎日、特訓が続きました。私はキャプテンが高校の先輩と言うこともあり、暗くなってボールが蹴れなくなると一人だけ呼ばれ、近くの城山神社の石段の昇り降りを毎夜、毎夜行い、足腰の筋練に励みました。

当然、帰宅は最終電車ということになります。

2年があっという間に過ぎ、3年生になった時にレギュラーもダメでがっかりしていると、歯学部にもサッカー部をつくるということになり、引き抜かれました。

そこはボーリングシューズでサッカーをやっているという何とも言えない光景でした。

すぐにキャプテンになり、サッカー専門書(チャナディのサッカー)を歯学部の教科書替わりに持ち歩く毎日でした。

3年生のあるとき、ふと自分は「武」が中心で「文」が欠けた大学生活を過ごしていると気づいて、これからは本業の歯科の勉強をしっかりとして「歯科医療で世の中に貢献するんだ」と心機一転して授業に集中する学生生活が始まり、今までの遅れを取り戻し「世の中の歯で困っている人を助けるんだ」という私の人生が始まったのです。

自分ながらも本当に一生懸命にやったと思っていますし、その時のノートは今でも大事に使っています。

そしてインターンの時、私は実の祖母の上下の総入れ歯を作りました。

喜んで使ってくれと思っていましたが、上は「見た目が良い」といって人前で時々入れていましたが、下は「痛いし、調子が悪い」といって一度も入れることがありませんでした。

当然、食事の時は上下とも入れ歯を外し、額(どて)で噛んで食べていました。

ちょうど、その頃、妻の祖母は東京の銀座の名医(河辺清治先生)が作った上下の総入れ歯でエビフライでも何でも食べていて、銀杏も入れ歯で割ろうとして「入れ歯が壊れる」と歯科医の義父に止められていました。

医局の時代

私はその時、入れ歯は腕により、こんなに違うものか本当に奥深い学問だなぁとつくづく思い知らされました。それで「よし、入れ歯に挑戦するぞ」と決心をしました。


入った医局は、もちろん総入れ歯の医局でした。第一の歯は乳歯、第二の歯は永久歯、第三の歯は入れ歯。「これをつくる名人になろう」と私の本格的な勉強が始まりました。

日本的に有名な手沼謙二教授のもとで始め、世界的に有名な人の本を次から次へと読み、それを実践する日々が3年間続きました。

4年目、5年目は医局の先輩の半田市の先輩の開業医 村井先生のもとで勉強し、昭和53年3月、当地の名古屋市緑区青山2丁目196番地にて「第三の歯 入れ歯を一生懸命やるんだ」と開業をしました。

本当にひとつひとつ丁寧に真心をこめて入れ歯を作って参りました。

歯周病に目覚める

ある時、何故多くの人が入れ歯になるのだろうかと考えた時、多くの歯を抜く原因は歯周病(歯槽膿漏)だとわかり、しかも入れ歯より丈夫な自分の歯の方がずっといいんだとわかり、歯周病の治療の勉強をする決心をして大阪の臨床医 片山恒夫先生のセミナーや東京医科歯科大学の木下教授、石川助教授、野田講師のポストグラデュエートコース(卒後教育)を受け、スタディグループ若葉会を立ち上げ、臨床家 都築尚先生、米国のゴールドマン、北欧のリンテ、米国のヘンリータケイ教授など多くの先生に学び、日本歯周病学会、日本臨床歯周病学会、アメリカ歯周病学会などで数多く勉強をしてきました。

チームワークに目覚める

同時に歯周病の治療には優秀な歯科衛生士(デンタルハイジニスト)とのチームワークが必要であると痛感し、良きハイジニストを求め育てて一緒に25年ほど前の昭和60年頃より、歯周病の治療をスタートしました。

その結果、歯を抜かなくてすむ人がどんどん増え、8020(はちまるにいまる)・・・80歳で20本以上歯を残す・・・を達成した人が平成21年には9名になりました。

今後は毎年毎年、もっと増やして出来たら当院の患者さんはすべての人が8020を達成し、入れ歯でない自分の歯で何でも食べられる質の高い人生を送っていただきたいと願っています。

現在の当院の歯周病治療のレベルはトップレベルと思っていますが、それでもより長く歯を残すには、早期発見、早期治療と定期検診によるメンテナンスがとても重要であります。

今はこのシステムを小学生(実際に20%位が歯周病です)にまで広げて、もっと多くの人に自分の歯で食べられる。幸せな充実した人生が送れるようにと、さらにレベルアップをしていこうと思っています。

今はインプラントの時代

近年インプラントの発達には目を見張るものがあり、ここ15年程は特に顕著です。

それはチタン製インプラント表面を酸化膜の加工をすることによって、インプラントが直接、顎の骨とくっつくように技術が発達したためです。

そして、あと2~3本歯があったらなという人には入れ歯よりブリッジ(橋渡しでかぶせる)よりもインプラントの方がメリットが大きい時代になりました。

また、入れ歯よりも自分の歯と同じように食べられ、自分の歯と同じような手入れで済み、限りなく自分の歯に近いインプラント治療が出来る用になり部分入れ歯にとって変わろうとしています。

本院も口腔外科医の専門化を中心としてチーム医療に心がけ、素晴らしい成果を上げています。

総入れ歯も、ますます進化し安定剤を使わなくてもよい入れ歯、長期に長持ちする入れ歯へと発展しています。

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